アニメ映画『となりのケルヌンノス』は私たちに何を伝えるのか

このもふもふなかみさまは、まだブリテンにいるのです。たぶん。


こんにちは、ハチミツです。FGOスピンオフのアニメ映画『となりのケルヌンノス』を観てきました。

私もFGO2部6章アヴァロン・ル・フェ(以下LB6)でケルヌンノスに心を痛めたユーザーのひとり。「今度こそ」という希望と「そんな慈悲ないだろ」の諦観を整理できないまま見始めました。

結論から言います。最高でした。

ケルヌンノス、バーヴァン・シー、そしてモルガンらに救済のアリバイをわたす帳尻合わせなどでは断じてない、あるひとつのFateです。



今回は2部6章アヴァロン・ル・フェを踏まえたうえで『となりのケルヌンノス』がどんな映画だったかを私なりにまとめたいと思います。

『となりのケルヌンノス』およびFGO2部6章の核心的なネタバレがありますので、ご了承のうえ読み進めてください。


目次

1.戦闘がないFate~異色の型月映画~

2.後編~イフのさらにイフ~
2-1.本編LB6におけるバーヴァン・シーの一考察
2-2.巫女バーヴァン・シー、祭神ケルヌンノス

3.完結編~隣人は何を伝えるのか~
3-1.言葉足らずなモルガン女王
3-2.となりのケルヌンノス

最後に


1.戦闘がないFate~異色の型月映画~


Fateシリーズの映画は2010年公開『劇場版 Fate / stay night Unlimited Blade Works』をはじめ、プリズマ☆イリヤ、FGOなどの原作をもとに数多く作られてきました。『劇場版 Fate/stay night [Heaven's Feel』は累計興行収入50億円を達成、成功を重ねてきたシリーズといえるでしょう。

成功の理由はいくつも考えられますが、私が注目したいのは「原作と同じことはやらない」方向性です。
映画向けにアレンジを加えた構成やストーリー展開、ゲームでは困難なバトル演出の数々。映画だからこその仕掛けの豊富さがFate映画の魅力ではないでしょうか。

『となりのケルヌンノス』も「原作と同じ」とは言い難い作品であり、これまでのFate映画からも逸脱した挑戦作です。

タイトルはケルヌンノスですが、彼は主役であって主人公ではありません。ケルヌンノスのお隣にそびえる白亜の城キャメロットで生きる女の子、バーヴァン・シーを中心に据えた作品といえます。
『ドラえもん』の主人公がのび太なのといっしょですね。

▲すべてはここから始まる。大穴に落ちたバーヴァン・シーがケルヌンノスと出会うシーン。


本作の前編はバーヴァン・シーとケルヌンノスの出会いと交流にたっぷり尺を割きます。前編のあらすじをまとめると次のとおりです。



女王の跡継として今日も元気にみんなから嫌われているバーヴァン・シー。
ある日、ひょんなことからとなりの大穴に落ちてしまう。


大穴から落ちた先には、白くておおきい神様「ケルヌンノス」が。
バーヴァン・シーはいつものように罵倒をくり返すが、ケルヌンノスは「むすっ」とそこにいるばかり。


ケルヌンノスの長い腕で地上に帰されるバーヴァン・シー。
母親の女王陛下モルガンに大穴での出来事を話すも、まるで信じてもらえない。


「きっとケルヌンノスをいじめられなかったから、お母様は怒っているんだ」
そう思ったバーヴァン・シーは、モルガンに内緒で大穴に降りるようになる。


ここまでで「あれ?」と思った方は、おそらくFateシリーズに慣れているのでしょう。

そう、本作ではここまでで戦闘がひとつもありません。それどころか、全編を通して超人バトルも殺し愛も一切ないのです。

戦闘がないFate映画。これが例外まみれのFate映画シリーズにおいてなお異色扱いされる理由といえます。

ですが血生臭い戦いがないにも関わらず、私は緊迫感と少しの不快感とともに本作を見ていました。バーヴァン・シーとモルガン、親子のすれ違いをじっくり丁寧に描いているからです。

シーン3において、バーヴァン・シーは興奮とともにケルヌンノスの存在をモルガンに訴えかけます。

それが「とても強い化け物を見つけたから私がいじめる(=その時は褒めてくれると嬉しい)」という、娘として当たり前のひねくれた愛情欲求なのはすぐわかりました。



「何故おまえはいつもそうなのだバーヴァン・シー」

娘の求愛をモルガンは強烈に否定します。

LB6をクリアしているユーザーはモルガンの真意を知っています。だからこそ、このすれ違いを「またか」「本編と同じになってしまうのか」とハラハラしながら見守る仕掛けになっているのです。

サーヴァント同士の超人的なバトルがなくとも人を惹きこむFateがそこにありました。



2.後編~イフのさらにイフとは~


さて、母親に拒絶されたバーヴァン・シー。ケルヌンノスをいじめようと彼女が大穴で過ごす日々が後編にあたります。

後編のあらすじは次のとおりです。



大穴の底でケルヌンノスを毎日"いじめる"バーヴァン・シー。失敗がつづく。
「またお母様に呆れられる」気づけばケルヌンノスに罵倒ではなく、愚痴や悩みを漏らすようになっていた。


ある日バーヴァン・シーはケルヌンノスが裸足であることに気づく。
バーヴァン・シー、少しだけ小さい手作りヒールを贈る嫌がらせを思いつく。


ケルヌンノスの足を測定してはせっせとヒールを作る毎日。


バーヴァン・シーはやがて「ケルヌンノスが女の妖精と楽しく話している」夢を見るようになる。


なんとかケルヌンノスをいじめようと励むバーヴァン・シーと、無言で受け入れるケルヌンノス。本作の後編はそのようなシーンの連続から始まりました。
何をやってもケルヌンノスを虐げられないバーヴァン・シーは、やがて「ヒールを贈る」という斬新な嫌がらせに没頭しはじめます。

前編で出会いが描かれた1人と1柱。後編はその交流パートといえるでしょう。そしてこの交流はある種、バーヴァン・シーがケルヌンノスの巫女として成立する過程と捉えられます。


2-1.本編LB6におけるバーヴァン・シーの一考察

ちょっとだけスマホアプリのFGOの話をさせてください。

LB6においてバーヴァン・シーの結末は明確に描写されていません。ですが、竹箒日記やユーザーの考察から「ケルヌンノスの神核に取り込まれ、呪いの厄災になってしまった」という見方が有力視されています。

とくに本編で触れられなかった第三再臨=ケルヌンノスの巫女と化したバーヴァン・シー説をとるプレイヤーは少なくありません。



竹箒日記のLB6解説回において、次のような文面があります。

「ステージもクライマックスで、客席もみんな見蕩れていて、“私、生まれてきて良かった!”な感じの。人生の中でいちばんアがっている……みたいな。まあ全部夢なんだけど」(竹箒日記「2021/8/12 無題。(きのこ)より抜粋)


"私"=バーヴァン・シーと見て間違いありません。そして彼女は第三再臨において「幸せな夢を見ていた気がする」と発言します。

他にも「首から下が動かない=バラバラにされた巫女と同じ」「ボイスで語られるあいつら=はじまりの6人および妖精國の妖精」といった解釈をふまえれば「第三再臨およびLB6崩壊編のバーヴァン・シーはケルヌンノスの巫女と近い存在である」と考えるのは、さほど不自然ではないのではないでしょうか。


2-2.巫女バーヴァン・シー、祭神ケルヌンノス

LB6でのバーヴァン・シーと巫女の関係性をふまえた上で『となりのケルヌンノス』の話に戻ります。

すると後編におけるバーヴァン・シーの行動は、まさしく巫女の振る舞いに見えてこないでしょうか。

無言を貫くケルヌンノスに愚痴や悩みを伝えるのは神への語りかけですし、手作りヒールの贈り物は捧げ物に他なりません。
いずれもバーヴァン・シー本人にとって"いじめ"の延長なのでしょうが、行動だけ見ればまぎれもなく神に尽くす巫女そのものです。

夢を見たまま妖精國を滅ぼすのではなく、祭神と交流する巫女としてのバーヴァン・シー。

大穴に廃棄された厄災ではなく、正しい神として巫女を受け入れるケルヌンノス。

人類史のイフである異聞帯のさらにイフの光景を映画館で見られたあの感動が、いま私にこうして感想文を書かせているのかもしれません。



3.完結編~隣人は何を伝えるのか~


クライマックスにあたる完結編のあらすじですが、『となりのケルヌンノス』の核心的なネタバレになります。了解した方のみスクロールしてご覧ください。












ヒール完成を間近に控えた頃、唐突にモルガンが病に伏せる。
モルガンを看病するバーヴァン・シー。


モルガン、目を覚ます。
バーヴァン・シーの体にはケルヌンノスの呪いが溜まっており、それを引き受けて倒れたのだ。


モルガンはバーヴァン・シーに妖精國の始まり(LB6と同一)を語り、また愛娘に心からの愛情を伝える。


大穴からケルヌンノス出現。厄災ではなく祭神ケルヌンノスと向き合う覚悟を決めるモルガン。


ケルヌンノスは無言のままふたりを蝕む呪いを吸収。大穴へと帰っていく。


後日、モルガンに見送られながら大穴に降りていくバーヴァン・シー。その背には身の丈より大きいヒールが背負われていた。


スタッフロールとともにED。


「女王歴2016年」と画面に表示。



3-1.言葉足らずなモルガン女王


完結編でバーヴァン・シーはとうとうモルガンに認められます。

その際にモルガンは「楽しそうに大穴に降りるお前を止められなかった」と悔やみながら語ります。この時、バーヴァン・シーを見ないよう顔を背けているのが実に細かい。

本作においてモルガンは言葉足らずな一面が強調されています。LB6では娘への真摯な愛を本人にすら伏せており、この作品でもそれは変わりません。観客としてはヤキモキしてしまうところですが、これがモルガンという人の味なのでしょう。

(ちなみに前編の「何故おまえはいつもそうなのだ」はパンフレットによると「何故いつも私を喜ばせようとするのだ。おまえが幸福に生きられるのなら、私など気にしなくていい。大穴に落ちた、などと虚言で気を引かずともいいのだ」とのこと)

▲和解後、モルガンと楽しく語らうバーヴァン・シーの様子。

シーン11において、とうとうモルガンは娘に愛情を伝えます。不器用な親子は、ケルヌンノスをきっかけに確かな繋がりを獲得―――正確には、すでにあったものを再発見しただけ―――しました。

これもLB6では叶わなかった光景です。不覚にも泣きました。


3-2.となりのケルヌンノス~隣人が伝えたいこと~

女王親子の和解を知ってか知らずか、大穴から出てきたケルヌンノスは無言を貫きます。

そもそも本作においてケルヌンノスの台詞(?)はバーヴァン・シーに名前を尋ねられた時の雄叫びのみ。スタッフロールでも声優は紹介されていませんでした。


▲親子に手を差し伸べて呪いを受け取るケルヌンノス。直後の「いかないで」とバーヴァン・シーがつぶやく場面に比肩する、本作最高の感動シーン。


「実のところケルヌンノスはバーヴァン・シーを、モルガンを、妖精國をどう考えていたのか?」

その決定的な答えは、本作では語られないまま終わります。明らかなのは、ケルヌンノスは大穴から這い出て親子を救った事実だけです。

私はそんなケルヌンノスの在り方を見ている内に、本作には「自然や天災との共存」の理念が根底に流れていると思いました。

現実に生きる私たちもケルヌンノスほどではないにしろ、さまざまな災害と隣りあわせで生きています。
それらから目を背けるのではなく、隣人として付き合っていこうとする心構えが大事なのではないでしょうか。

スタッフロール後の「女王歴2016年」からもわかるように、本作は「カルデアが到着する1年前にこんな出来事があったかも」そんなもしものお話。上映時間88分で描かれた夢想の絵画です。

現実で生きる私たちはこの空想を「面白かった」で終わらせず、何かを受け取るべきなのかもしれません。



最後に



堅苦しいレビューになってしまいました。

本作はもっと肩の力を抜いて楽しめる、牧歌的なアニメ映画だと思います。息をもつかせぬエンタメを求めている人はあまり好きになれないかもしれませんね。

最後に私がIQzeroでおすすめしたい、バーヴァン・シーとケルヌンノスが織りなすイチャイチャ場面をまとめて終わりましょう。どれも必見ですよ。


バーヴァン・シーがケルヌンノスの目だと思って指で突いていたのが、実は鼻の穴で必死に手を洗うシーン。

悪逆に疲れてうたた寝を始めたバーヴァン・シーに、もふもふををちぎって作った毛布をかけるケルヌンノス。

ヒールの寸法を測ったら自分が10人は入れるんじゃないかと気づいて笑顔が引きつるバーヴァン・シー。

バーヴァン・シーがくれた尋常ではなく辛い「だけ」のお酒を一気に飲み干すケルヌンノス。

アニメ映画『となりのケルヌンノス』は実在せず、この記事のすべてはフィクションであり実在の人物団体には一切関係ない。


だめです。とても語りきれません。

ここまで読んだのにまだ観ていない方は、ぜひ今からでも『となりのケルヌンノス』をご覧あれ。


それでは今回はこのへんで。ではまた。

2021-08-14 19:33:01

Writer:ハチミツ

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