セミという虫は見極めが難しい。何が難しいのかというと、死んでいるように見えて実は生きているからだ。
私が小学生の頃、セミのせいで何時間も家に入れなかったことがある。当時の我が家は市営住宅の8階に住んでおり、長い廊下を歩いてやっと家の玄関にたどりついていた。
西日の強い夏のその日、学校から帰ってくると家の玄関の前になにか黒くて丸いものが落ちている。なんだろうと思って近づくとセミだった。しかも一番大きいと言われているクマゼミだ。
私はセミがこの世の中で一番嫌いだ。特にクマゼミはただシャンシャンとうるさく鳴くばかりで、ひぐらしやミンミンゼミのような風情がまったくない。夏の関西のテレビでは、外で天気予報をしているお姉さんの声がまったくマイクで拾えないほどシャンシャンとやかましい。そんな憎きクマゼミが玄関の前でひっくり返っているのだ。
死んでいるんだろうと近づくと、急に「ジジジジッ!」と鳴いた。私は「ギャーーッ!」と大声を出して5メートルほど後ずさりをした。「ハァ、ハァ、い、生きてるやん」と泣きそうになったが、死んだふりをしているそのセミが急に憎くなってきた。チキショー、死んだふりしやがって・・・。
そうだ、生きてるなら、玄関の前から飛び去ってもらえば家に入れる。そう思った私は、被っていた黄色い帽子を振り回したり、セミをボーリングのピンに見立てて、持っていた手提げかばんをボーリングの玉のように放り投げてみたりしたが、一向に飛んでいく気配がない。
セミの前で踊ったり、ない頭で思いつくすべてのことをしたりしてもみたが、セミは玄関の前でひっくり返ったままだった。私は諦めて、セミから5メートルほど離れた場所に座って親が帰ってくるのを待っていた。
1時間位待っても親が帰ってこない。我が家は貧乏だったので、夏でも玄関のドアを開けて風を入れていた。そのため、玄関ドアが閉まっていると留守なのだ。しょうがないのでランドセルから夏目漱石の本を出して読み始めた。右の方を見ると、セミはまだ死んだふりをしている。私は右半身に冷や汗をかいたようなひんやり感を感じつつ、いつまたセミが「ジジジッ!」と鳴くかと警戒しながら本の文字を目で追っていた。
しばらくすると両親がニコニコしながら帰ってきた。どうやらパチンコに行ってたらしい。「りえ、何してるんや」と聞かれたので、セミが玄関前にいて怖くて中に入れないと告げた。すると父はそのセミを手で拾ったかと思うと、ニヤリと笑いながら全力で私の方へ放り投げたのだ。セミは最後の力を振り絞って鳴くかのように大きな声で「ジジジーーーッ!」と鳴き、私は全力で泣き叫びながら逃げていった。私はしばらく家に帰れなかった。セミの死んだふりは嫌いだが、少年のような心を持つ男はもっと嫌いになった。
Writer:writer_kotorie